みんなで海に行きませんかと誘われたのは木曜日の深夜だった。
 木曜日の深夜、霧島家に一本の電話が掛かって来た。電話の主は美凪嬢であった。何でもみちるに夜明けの海を見せる為に、これから家族全員で海に向うとのことだった。それで折角だから霧島家のみんなや真琴嬢、それに鬼柳さんもどうですかとの言伝だった。
 正直時間が時間だけに今から行く気はしなかった。しかし、これから見に行く夜明けはみちるにとって最初で最後の夜明けになるのだと思うと、それに付き合うのも悪くはないと思い、最終的には付き合うことにした。
「にょわ〜〜。海がどんどん明るくなってく〜〜」
 絶え間なく海風と塩の匂いが吹き付ける砂浜を前に、東方の海から月讀の支配する夜之食国を天照が奪還するかの様に、日輪がその神々しさを増して来た。初めて見る夜明けに、みちるという名の少女は、ただ感嘆するばかりだった。
「そう、こうやって海に光が満ちて行くのよ……。そしてこれが貴方の名前の由来よ、みちる」
 みちるを優しく抱きながらひかる夫人は語った、みちるの名の由来を。暗闇の海に光が舞い降り、それが満ちて行く……その様がみちるという少女の名の由来なのだと。
「うっわ〜〜……」
「そういえば八雲も海は初めてだったね」
「うん! お姉ちゃんすごいよ。海の先からどんどん光が広がっていくよ!」
 みちると同じく初めて夜明けの海を見る八雲も、佳乃嬢を呼び掛けながらその神々しい光景に魅入っていた。
 斯く言う私も夜明けの海というのは生まれてこの方一度も見たことがなかった。夜明けの海というのは斯くも神秘的な光景なのかと、身体の内から感動が込み上がって来る。
「あ〜あ、兄様がいたら『見よ! 東方は赤く燃えている』をやったのになぁ〜」
「それじゃ、私が相手をしましょうか……?」
「う〜ん、止めとくわ。今やるのはシャレになんないし」
 真琴嬢が何やらやりたそうな様子を見せ、なら代わりに私が相手をすると美凪嬢が話し掛けた。暫く悩んだ後真琴嬢は美凪嬢の誘いを断ったが、一体何をしようとしていたのか興味が尽きない。
 そして私は、夜明けの海にそれぞれがそれぞれの想いを抱く様を、微かに声の聞える砂浜から少し離れた海沿いの堤防に腰掛けながら眺めていた。
 別に交じりたくない訳ではない、ただみんなが幸せそうに戯れている姿を遠くから見たかっただけだ。
「楽しそうですね。あなたは交わらないんですか?」
「っ……!?」
 突然声を掛けられたことに驚き、私は声の方角に目を向けた。するとそこには私に話し掛けるように前屈みになり、笑顔で私を見つめている少女の姿があった。
 耳元から前屈みになった膝に掛かる位の長く美しげな髪を束ねた少女。その私を見つめる満面の笑顔はまるで吸い込まれるかの様な笑顔で、そして何処か懐かしかった。
「交わっても構わんのだがな。しかし、こうして人が幸せに戯れ合っているのを遠くから見つめるというのもなかなか楽しいものだと思わんか?」
「そうですね。でもやっぱり自分も交ざって戯れるのが一番楽しいですよ……。隣、いいですか?」
 一瞬少女は悲しげな顔を見せたが、すぐに元の笑顔に戻り、私の隣に座っていいかと訊ねて来た。
「ああ。別に構わんよ」
 少女に対し、私は軽く頷いた。
「観光か何かで夜明けの海を見に来たんですか?」
「まあ、そんな所だ。そういう君も観光者か?」
「ううん、わたしは地元の人間なんですよ。こうして毎日朝日を見に海に来てるんですよ」
 夏の夜明けは早い。午前の四時にはもう辺りが明るくなり始めている。そんな時間に我々のように稀に見に来るならともかく、それを日課としているとは大したものである。
「見た所10代後半のようだが、そんな若い年でこんな早い時間に毎朝起きているとは、なかなか見上げたものだな」
「にはは」
 率直な感想を述べると、少女はにははと声を出しながら笑った。特徴的な笑い方だが嫌悪感は抱かない。寧ろ、もっと幼い子供の様な純粋さを感じ、心が癒される。
「しかし、こんな早い時間に毎日朝日を見に来ているのには、何か理由があるのか?」
 ふと思ったことを私は訊ねた。そんなことは人が行動を起こすのには何かしらの理由があるのだから、親しい仲の者に訊ねるならともかく、初対面の人間に訊ねることではないだろう。
 しかし私は訊ねてしまった。理由はよく分からない。ただ、不思議とこの少女と話がしたいと思ったからだ。
「理由ですか。そうですね……昔の人はこの海の先に何があるって考えていたんだろうって、思ったことありませんか?」
「?」
「太陽が沈みし西方の海の先にはから天竺有り、されど太陽が昇りし東方の海の先には……。空と海が交わる水平線の向こうに何があるって考えていたんでしょうね、わたしやあなたのように、こうして東の海を眺めた遠き時代の人々は……」
 今の私達には知識がある。この東の海の先には嘗て独自の壮大な文明が栄え、そして差別主義者の肌の白き人々に荒らされ、蹂躙された広大な大陸が広がっているのだと。
 だが、黒船が来航するまでそんな大陸が広がっていることなど、この国に住まう人々は知る由もなかった。
 それ以前の人々はこの日出ずる東方の海に何を見出していたのだろう? それこそ唐天竺のような大陸を、それとも……?
「往人さ〜ん、そんな所に座ってないで砂浜に降りて来たら〜?」
 少女と会話をしていると、砂浜から私を呼び掛ける真琴嬢の声が聞えて来た。少女の問い掛けにより思考の世界に魅入っていた私は、その声により再び現実世界へと舞い戻った。
「ああ、今向かう!」
「往人さんって言うんですね」
「ん? ああ」
 少女に名を呼ばれ、私は咄嗟に頷いた。少女とは初対面だというのに、名前を語られるのは不思議と悪い気がしない。
「しかしどうやらお呼びのようだ、済まんが私はこれから砂浜に降りる」
「ええ。じゃあわたしはこの辺で……」
「待ってくれ! 折角だから君の名前を訊かせてはもらえんか……?」
 立ち上がり私の前を去ろうとする少女に、私は名を訊かせてくれるよう訊ねた。自分でもその理由は分からない、ただ、この少女の名を知りたい、そう思っただけだ。
「いいですよ。わたしは観鈴みすずって言います。また逢えるといいですね、往人さん」


第拾五話「種山ヶ原のみたま祭」

「ふああ〜。睡魔が襲って来ているが、早々寝るという訳にもいかんな」
 海から戻って来ると、私は寝不足と移動の疲れから大きなあくびをした。この遠野から近隣の海までは車で1時間弱とはいえ、これからいざ寝ようと思った瞬間、急遽海に向かうこととなったのだ。それに加え往復2時間の車での移動。疲れるなという方が無理である。
 だが、私も含めたみんなは、その疲れを苦とは思わなかった。みちるに残された時間はもう1日もないのだ、それを考えれば1日寝ない程度で根を上げてどうする。今はみちると共に同じ時を過ごすのが何よりも大事なのだと、私は重い眼を擦りながら自身に檄を飛ばした。
「いやはや、一緒に海に行けなくて申し訳ありません」
「気にする必要はない。それよりあゆ嬢の体調はどうなのだ?」
「あれからぐっすり眠ったからもうバッチリだよ」
 海に行ったメンバーで遠野家で戯れている中、10時過ぎになると祐一とあゆ嬢が訪ねて来た。遠野嬢が言うには、祐一達も誘おうと思ったが、深夜この遠野に来るだけでも大変だからと、誘うのを断ったそうだ。
「その代わりといっては何ですが、ある人を連れて来ました」
「どうも、こんにちはです。寄生獣ミギー強敵とも美坂栞みさかしおりと申します。祐一お兄様に誘われて一緒に遊びに参りました」
 祐一達に手招かれて、一人の少女が顔を見せた。ショートカットで礼儀正しい少女、美凪嬢とはまた違ったおしとやかな雰囲気がある。祐一のことを”お兄様”と呼んだが苗字が違うので、恐らく美凪嬢と同様、祐一を兄の様に慕っているのだろう。
「あなたがみちるちゃんね。初めまして」
「はじめまして〜。栞は美凪ねえの親友なの?」
「いいえ、親友じゃなく強敵ともですよ」
「ええ……ヴァニラ=アイスしおりんは親友ではなく強敵ともです…。強敵とも有り遠方より来たる、また楽しからずや……」
「んに?」
 互いに親友ではなく友と語り合う美凪嬢と栞嬢。そのニュアンスの違いが理解出来ず、みちるは困惑の色を見せた。
 もっとも、私自身そのニュアンスの違いが理解出来ない。親友ではなく友と言っているのだから、それ程仲の良い友達ではないという意味か。しかし、この二人の愛称で呼び合う雰囲気を見ていると、親友に値する仲にしか見えない。
 ひょっとしてこの二人の”とも”という言葉には、私の知らない意味が込められているのだろうか?
「美凪嬢、先程の”とも”の意味は?」
 気になり、私は美凪嬢に訊ねてみた。
「言葉……まだ少し……できない。教えて……シンイチ……」
「?」
 美凪嬢に訊ねたら意味不明な答えが返って来た。どうにもからかわれている感が拭えないが、それ以上訊ねても答えは聞けそうになかったので、追求するのを断念することにした。
「冗談はさておき……。メンバーも揃ったことですし、そろそろ出発致しましょう」



 遠野から車で約30分、一行は岩手県江刺市にある種山高原に到着した。嘗て宮澤賢治が愛して止まなかったというこの高原、星空がこの上なく綺麗な事でも有名で、みちるとの思い出を創るにはこの場所が最適だろうと向かったのであった。
「にょわ〜空気がおいしいよ〜」
 高原の風を身体全体に受け、腕をめい一杯空に広げながらみちるは深呼吸をした。確かに身体に吹き付ける風はこの上なく心地良い。視界には森に包まれた山々と、雲のない青空しか映らない。
 この光景は今日一日しかこの世に存在し得ないみちるの為に、天照が梅雨の雲を払い除けてくれたのだろう。
「さて、昼にはバーベキューでも行おうと思ってるんだが、それまで時間があるしな。その前に一風呂浴びるというのはどうだ?」
 種山高原には数年前宮澤賢治生誕100周年の記念事業の一つとして造られた、「星座の森」と呼ばれるアウトドア施設があり、今日はここで様々な事を行うとのことだ。
 また、星座の森には簡単な風呂設備があるらしく、そこで一風呂浴びるのはどうだろうと一佐が提案した。
 夜明け前から移動に移動を重ね、疲れが溜まっているので、その提案を断る理由は私にはなかった。他のメンバーも反対意見を述べる者はおらず、一行はまず星座の森の中にある風呂設備へと向かった。
「ふ〜。しかし沸かし湯でなく天然の露天風呂なら一杯行きたい所だな」
「気持ちは分からんでもないが、ビールは大量に抱え込んで来たし、バーベキューの時にでも飲めばいいだろう」
 風呂に入ると、開口一番直也氏が露天なら一杯交わす所だろうと呟いた。どうやら一佐も同じ気持ちらしく、この二人はどこに行ってもまず飲むことを考えるのだと、その酒豪振りには呆れるばかりだ。
「しかし八雲は女湯か、羨ましいものだな」
 風呂は当然の如く男湯と女湯に別れており、八雲は子供の特権で、佳乃嬢に引きつられ女湯へと向かった。佳乃嬢は狐の頃の八雲と度々風呂に入っていたということだから、それは自然の成り行きかもしれないが、全く持って羨ましいものである。
「まったくですね。子供というのは羨ましい身分ですよ」
「気が合うな、祐一。いっそのこと、我等でこれより女湯の偵察に向かうか?」
「了承」
「はは、行くのは構わないが、聖に酷い目に遭わされても知らんぞ」
 祐一と意気投合し女風呂を覗きにでも行こうかと冗談を交わしたが、直也氏にキツイ冗談を言われ、静かに浸かっていることにした。



「へへっ、も〜らい!」
「にょわ〜! なにするんだ八雲〜。みちるのおにく〜」
 風呂から上がると、早速バーベキューの準備に取り掛かった。持参したバーベキューセットを広げ、予め用意した肉やら野菜やらを焼き始めた。
 私の横隣では、自分が焼いていた肉を八雲に取られたみちるが怒りをあらわにしていた。しかしこうして見てみると、八雲とみちるは年が同じ位だから、喧嘩しながらも良い友達関係を築けたのだろうと、しみじみ思う。
 ひょい、ぱくっ
「ぬっ! 貴様、私の肉を!」
「油断大敵〜油断大敵〜」
 目の前で焼いていた肉を取ろうとしたら、直前で真琴嬢に強奪された。何というか、前にもこんなことがあった気がする……。
「ん〜。やはり風呂上りの一杯は格別だな」
「それに加え、青天の草原で交わす一杯。風呂で飲まなかっただけに余計に美味いだろ、直也」
「まったくだ」
 焼肉や野菜を食しながらビールを飲み続ける直也氏と一佐。確かに風呂上りの一杯は格別そうだが、下手に絡むとまた再起不能になるまでに飲まされそうなので、私は食べるのに専念した。
「うん! 丁度いい焼け具合だよ」
「ん? 何を焼いているんだ、あゆ嬢?」
 よくよくあゆ嬢の目の前を見ると、明らかに肉や野菜と違った物が焼かれているのに気付き、私は声を掛けた。
「何ってタイヤキだよ。はぐはぐ……。うぐぅ〜、やっぱりタイヤキは焼き立てが一番だよ!」
 こんがりと香ばしく焼けたタイヤキを幸せそうな笑みを浮かべて頬張るあゆ嬢。肉や野菜を焼くのに使用しているのはホットプレートだからタイヤキを焼けないことはないが、それにしても季節外れの物を食すものだ。予め用意した材料の中にはタイヤキはなかったので、個人であゆ嬢が持参したのだろうか?
「暑い時に食べるアイスは最高です。最高に『ハイ!』ってやつですよ〜」
 そしてこちらは明らかに持参したクーラーボックスから取り出したバニラアイスを食べ続ける栞嬢。ここまで来るとバーベキューというよりはバイキングである。しかし、みんなそれなりに楽しんでいるのだから、それはそれで良いのだろう。
 ひょい、ぱくっ
「ちいっ、一度ならず二度までも!」
 そして私も真琴嬢と格闘しながら昼食会を楽しみ続けた。



「いくぞ〜八雲〜おにくのかたき〜! スーパーみちるスペシャルアタァァァック!!」
 バーベキューの後はみんなで出来る簡単なスポーツだと、ドッジボールをやることとなった。チームは霧島家と遠野家を基本軸とし、霧島家側に私と真琴嬢が加わり、遠野家側に祐一とあゆ嬢、栞嬢が加わり、ひかる夫人が審判員となった。
 霧島家チームは内野が直也氏、八雲、真琴嬢に私、外野が女史と佳乃嬢。遠野家チームは内野が一佐、みちる、あゆ嬢に祐一、外野が美凪嬢と栞嬢となった。
 先攻は遠野家チームとなり、開始早々焼肉を取られた恨みとばかりにみちるが八雲目掛けてボールを投げ出した。
「へへっ、これくらいちょろいちょろい」
 しかしみちるの投げたボールは言葉とは裏腹に勢いのないもので、八雲を撃墜する事は出来なかった。
「こいつはお返しだ〜。ターボスマッシャーパ〜ンチ!!」
 今度は八雲がみちる目掛けて空中に投げ出したボールを殴り付けてみちるへと飛ばした。
「にょわわ〜」
 殴り付けられたボールは勢いに乗りみちるに襲い掛かった。子供が殴り付けたボールとはいえみちるには充分脅威に値し、みちるは瞬間的にそのボールを避けた。
「よっと!」
 みちるが避けたボールは外野に行くと思われたが、直前で祐一が掴んだ。
「さて、行きますよ往人さん。これでも小学生時代は三次元界の二階堂大河と呼ばれたものです。必殺! スカイショット!!」
 ボールを掲げ、祐一は空中高く飛翔するかの様に飛び上がり、そして地面に叩き付けるかの様に私に向かってボールを投げ付けた。
「ぐわっ!」
 私は避けるなどせずそのボールを捕らえようとしたが、勢いがあり過ぎ、掴まえることが出来ず、見事祐一に撃墜されてしまった。
「大佐、お疲れ様。大佐の仇は私が取るよぉ〜」
 撃墜されたことにより外野に行く私に代わり、佳乃嬢が内野に入った。ルールによれば一度撃墜されたものは内野に復活することが出来ず、まだ撃墜されていない外野がいれば代わることが出来るのだそうだ。
 その繰り返しで外野の代わりもいなくなり、内野にいる最後の一人が撃墜されたチームが負けになるというルールとのことだ。
「お姉様、アレを使うわ」
「ええ、よくってよ」
「行くよ〜。スーパー!」
「稲妻ッ!」
『アタァァァァァック!!』
 互いに掛声を交わし、まずは佳乃嬢が外野の女史の方向に高らかとボールをトスした。そして次にその高らかと投げられたボールを女史が飛び上がりながら相手陣地に向かって叩き付ける様に投げ付けた。
「うぐぅ〜!」
 その一撃の直撃を食らい、あゆ嬢は見事撃墜されてしまった。そして遠野家チームの内野には代わりに栞嬢が加わった。
「あゆさんの仇は私が取りますよ。さっ、ミギー、防御頼む……じゃなくって、私達も合体技といきましょう!」
「ええ、しおりん……」
「超級!」
「覇王……!」
『電影弾!!』
 栞嬢は勢い良くボールを回転させながら美凪嬢へとパスし、それを敵陣目掛けて投げ付けた。
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄」
 しかしそのボールは真琴嬢に平然と掴まれ、攻撃は失敗した。
「貧弱、貧弱〜。この程度の攻撃、わたしには通用しないわよ!」
「流石はグワシ!まことちゃん、私達の超級覇王電影弾如きでは倒せませんね」
「やはり究極石破天驚拳を使うしかありませんね……」
 その後もドッジボールは白熱を重ね、なかなか決着が付かず、結局は引分けで幕を閉じた。
 ドッジボールが御終わった後は、草原に寝転がり空を仰いだり、昆虫採集や野鳥観察などをして種山高原の自然を満喫した。
 そして楽しい時間は流星の如く流れ、星々が瞬く夜が訪れた……。



 辺りがすっかりと暗くなり星々が空を覆い尽くした時間、みちるにとっての最後の晩餐は始まった。夕食は遠野家特製のカレーで、昨晩に作り、熟させていたとのことだった。
「はい、完成しました……」
 星の森内の共同炊飯棟で温め終えたカレーの入った鍋を、美凪嬢が皆の前に運んで来た。
「にょわ〜ほっぺたがとろけるようにおいしいよ〜」
 初めて口にするカレーに、みちるはご満悦のようだ。かくいう私もこんな美味いお手製のカレーを口にするのは生まれて初めてだった。
「ん? どうしたのだ、栞嬢。手が全く付けられておらんが?」
 皆が美味しくカレーを頂いている中、一人栞嬢だけがカレーを口にしていなかった。これだけ美味しいカレーを口にしないのは勿体無いと思い、私は声を掛けた。
「いえ、私、辛い物が苦手なんで……」
「やれやれ、相変わらず栞の舌はお子ちゃまだな」
「う〜。そんなこと言うお兄様嫌いです〜」
 カレーが食べられないことを祐一にからかわれ、栞嬢は拗ねた。昼食時には大量のアイスを食していたが、その反動で辛い物が苦手なのだろうか。
「こんなおいしいカレーを食べれないなんてもったいないぞ〜しおりん〜」
「分かりました! 私だって来年の2月にはもう18です。カレーくらい食べられなきゃ大人にはなれません……!」
 自分より年下のみちるが平然とカレーを食べているのに触発されたのか、栞嬢は恐る恐るカレーを口にした。
「ん……お、美味しいです……。カレーって今まで辛いばかりの食べ物だと思っていましたが、こんな美味しいものだっただなんて……」
「そう言って頂けると嬉しい限りです……。旧海軍から海自に伝わる伝統のカレーの味をそのまま再現した、遠野家特製カレーの美味さは伊達ではないですから……」
 旧海軍からの伝統で海自の金曜日の夕食はカレーと定められており、それに習い遠野家の金曜日の夕食もカレーという話だった。毎週お手製のカレーを作る、その繰り返しがあるからこそ、これだけ美味いカレーが作られるのだろう。
 美味しい料理に囲まれ、祭の様に華やかで盛大な種山ヶ原の晩餐会。その盛り上がりは永遠に続くかの様に夜の深まりに浸透しながら続いて行った。
「さて、そろそろ移動するとするか……」
 永遠に続くかと思われていた晩餐会が終わりに近付いた頃、突然一佐が口を開いた。
「移動? どこへだ?」
 一体今更どこへ移動するのだろうと、私は訊ねた。
「星の見える場所さ」
「星の見える場所? ここでも十分見えているが?」
 星座の森から眺められる星空。それは街中では決して見られない美しさを誇った夜空だった。普段は眺められることの叶わない天の川も薄っすらと確認出来、これが天の川なのかと感嘆する程の夜空だ。
 この星空でもまだ、一佐は物足りないというのだろうか?
「こんなもんは本当の星空なんかじゃない。本当の星空をみちるに見せてやりたい。ただ、それだけだ」



 星座の森から種山の奥へ、奥へと車を進める。星座の森から離れると目立った街灯もなくなり、車のライトのみを頼りに深遠の山をひたすら走り抜ける。
 この別世界へ通じるかの如く夜道の先に、一佐の言う本当の星空があるのだろうか?
「この辺りでいいだろう」
 一佐の指示により車が止まる。降りた先は何もない所のように見えた。車のライトが消える。唯一の灯りを失った空間は必然的に闇に覆われた。
 やみ、ヤミ、闇! 人工的な光の一切が遮断された空間には本当の闇が広がっていた。嘗て人は闇を怖がった。しかし今の人は闇の恐怖を完全に克服した。今までそう思っていた。
 だが、この真の闇に私が最初に抱いたのは、紛れもない闇の恐怖だった。その時私は、今まで自分が克服したと思っていた闇は、人口の灯りが僅かにでも灯っている偽りの闇に過ぎなかったのだと悟った。
(!?……これは……!?)
 何か灯りは、灯りはないのか!? 闇の恐怖から逃れようと、私は光を探した。天に助けを求めようとするかの様に、空を眺める。
 その瞬間、私は言葉を失った。そして闇の恐怖に苛まれた自分を恥じた。何を怖がっていたんだ自分は? 確かに大地には一片の灯りもない。だが、この夜空はこんなにも輝いているのだと。
「……」
 全ての人工的な灯りを遮断した空間。一見真の暗闇が広がっているかの様に見えた空間は、言葉では言い表せない本当の星空が浮かんでいた。天の川は先程より遥かに洗練され、肉眼で確認出来る全ての星々が最大限の輝きを放っていた。
 確かに先程の星座の森で見えた星空は真の星空ではない。星は光に守られた場所では、決して真の輝きは得られない。偽りの光が奪われ、闇が侵食する世界を体感し、光の救済を皆が求める空間でこそ、星は真の輝きを誇るのだと。
「みちる、どう……?」
 誰もが皆、その星空に言葉を失っていた。そんな中、美凪嬢がみちるを後ろから包み込む様に抱き締め、みちるに優しい声で訊ねたのだった。
「うん、きれいだよ美凪ねえ……。この星空がみちるが旅立つ場所なんだね……」
 みちるの身体が徐々に実体を伴わなくなっていった。貝殻に込められた力の効力が失われて来たのだ。最期の時は近い――。
「祐一さん、あゆさん、往人さん。みちるにお父さん、お母さん、美凪ねえといっしょに過ごせる時間を与えてくれてどうもありがとう……」
「礼には及ばん。しかし。どうにかならぬものなのか……?」
 今更ながらたった1日しか幸せな時を過ごせぬのは哀し過ぎると思い、そう私はあゆ嬢に問い掛けた。
「うん……。私の力は一度死んだ生命体を新しい生命体に再生するのを手助けするのが精一杯。死後の再生は可能だけど、蘇生は不可能なんだよ……。
 それにみちるちゃんは生まれることが出来なかった人間。帰るべき身体がない魂は、私にはどうにも出来ないよ……」
「……」
 必死に哀しみを抑えているあゆ嬢の顔を見て私は悟った。あゆ嬢も私と同じ気持ちなのだと。このみちるという少女に幸せな時を与えたい、だけど自分の力ではどうすることも出来ない。その葛藤が聞えて来る様で、私には返す言葉がなかった。
「いいんだよ、往人さん……。世の中にはみちるのように生まれてこなくてお母さんにだかれたくてもだかられなかった子供が、いっぱい、いっぱいいるんだから……。
 みちるは往人さんたちのおかげでお母さんにだかられる機会をあたえられたから、もうじゅうぶんなんだよ……」
 哀しみを抑えながら必死で笑顔を作り、そう囁くみちる。確かに、みちるのような境遇の子供は世の中に数え切れない程いる。ならば、束の間の奇蹟を与えられたみちるは十分に幸せなのかもしれない……。
「それからしおりん、美凪ねえとずっとずっと仲のいい友達でいてあげてください……」
「ええ、約束するわ……」
 そう頷くと、栞嬢はみちるの身長に合わせる様に前屈みになり、右手の小指を差し出した。
「んに?」
「約束の指切りですよ」
「うん!」
 みちるとずっと美凪嬢の友達でいることを指切りした栞嬢。その顔にはうっすらと涙が流れ出していた。
「それから、それから……」
 そしてみちるは自分と同じ時を過ごしてくれた一人一人にお礼の言葉を差し伸べる。その言葉の一つ一つが別れの言葉となり、語り掛けられる立場としては切なさを抑え切ることが出来ない……。
「そして、最後にお父さん、お母さん、美凪ねえ……。たった1日だけだったけど、お父さんとお母さんと美凪ねえと一緒にくらせて、みちるはとっても幸せでした……。だから、だから今度生まれて来た時は……」
 そう言葉の最後を飲み込んだみちるを、一佐とひかる夫人と美凪嬢は三人で優しく抱き上げた。
 みちるが飲み込んだ言葉は聞かずとも三人には自ずと理解出来ただろう。互いに言葉を交わさずとも心の打ち所を理解し合える、それが家族というものなのだから……。
「我等を護り賜し八百万神やおよろずのかみよ、願はくば化身に身を置きしかの者の御霊みたまを、我が力持て無事空へと旅立たせん……。無魂大氣行……」
 あゆ嬢が静かに祝詞を唱え出した。するとみちるの魂は輝きながら大気へと舞い上がって行った……。
 カラン……
 そして三人の足元にはみちるの魂が抜けた貝殻が静かな音を奏でて転がった……。
「……。生まれて来た者には必ず死が訪れます。それは生まれた時から決まっている、生きとし生きる生命体全ての定めです……。
 人は永遠を生きることは出来ません。けど、人々の中に自分の生きた証を残すことは出来ます……。人は人々の想いの中では永遠に生き続けられる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・んです……。
 だからみちるちゃんのことを忘れないで下さい……。昨日の夜から今日のこの時までのみちるちゃんと共に過ごした思い出を忘れないで下さい……!
 そうすれば今日ここに集まったみんなの想いの中でみちるちゃんは永遠に生き続ける・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のですから……」
 人は永遠に生き続けることは出来ない、しかし人々の想いの中では永遠に生き続けられる……。他の生命体はいざ知らず、他の者の心の中で生き続けられるのが人間の特権と言えるのかもしれない。
 そう――私は生涯忘れないだろう。例え刹那の時と言えどもみちるという名の少女がこの地上にいたことを――。


…第拾五話完

※後書き

 今回は今までで一番人口密度が高かったと思います。スポット参戦の栞に、ようやく登場して来た本作のヒロイン観鈴。栞は以前から出そうとは思っておりました。美凪の友達だという伏線みたいなのも張っていましたし。それと冒頭の観鈴。本格的な登場は第二部からになりますが、一部に顔を出すのも面白いだろうと思って出演させました。観鈴登場のシーンは、是非とも「夏影」のBGMを流しながら読んで頂きたいものです。
 それと今回は中盤まで楽しいノリで進み、後半は切ない話になりましたが、この辺りはいつ死ぬか分かっているからこそ、それまでの時を楽しく過ごせるのではないか?という私の一つの提言です。人の死はやはり哀しいものです、ですがそれをいつ迎えるのかを分かっているのなら、生きるものは必ず死ぬというのを前提にすれば、それまでの間生涯に悔いを残さない様に楽しく過ごす事も出来るのではないかと思います。寧ろ、死を否定すれば否定する程、死には恐怖しか感じないと思うのです。
 また、この辺りは原作「Kanon」の栞シナリオに通じる所もありますね。原作の栞シナリオも、祐一と共に過ごせる期間を決めたからこそ、それまでの期間栞が輝いて生きられたのでしょうから。そういう意味では、今回の栞の登場は単なるスポット参戦には終わらない、意味のある登場だったかと思います。
 しかし中盤までの展開は相変わらずマニアックなネタで覆い尽くされていますね…。恐らく最も元ネタが分からなかったであろうネタが、「二階堂大河」だと思います。説明するならば、このキャラクターは『ドッジ弾平』という漫画の主人公である弾平のライバルキャラクターです。祐一がボールを投げる瞬間の「スカイショット」というのも、この大河の持ち技の一つだと記憶しています。いずれにせよ、私が小学生時代の漫画ですので、今の高校生辺りの世代でも元ネタを知っているか微妙な所かと思います。
 さて、現在の予定では次回が第一部の最終話になる予定です。今まで色々と張った伏線の殆どを解き明かすと思いますので、各々方でどんな風に解き明かすのかを想像して見て下さいね。
※平成17年3月1日、改訂

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